8mmカメラとともに


いつのまにか8mmフィルムが製造中止になってしまったようだ。こいつもただのカタカタと云う箱になってしまった。


実家には8mmがあった。その8mmフィルムの中には僕が小さかった頃に走り回る姿や、母親の若かった頃が収められている。写真のような懐かしさだけではない。8mmのフィルムがスクリーンに投影されて、まるでそのときが今生きているように、活発に動いている。
スクリーンの中の自分が何か僕に言っている。音声はないけど、ただその声が届かないだけの感じがする。


大学生になり、子供の成長記録を撮るカメラは僕の表現手段になった。映画部にあったキヤノン1014XL-Sというカメラを使い、「人間VSカン」というほんの1分程度の映像を撮る。短くても初監督作品、自分でストーリを考え、自分が演じ、先輩とカメラを回し、一コマずつカンを潰す。現像されたフィルムにみんなでカンを叩いて音楽代わりにしたものをフィルムに録音し、作品にした。
映像は面白くもなんともないが、それでも映像を作る楽しさを教えてくれた。

学生生活の終わり頃、すでにコダックは8mmから撤退し、使うカメラもフジのZC-1000に移っていた。学生最後の気持ちが後押ししたのか、最後に映画の脚本らしきものを書いて後輩達と撮影した。研究、バイト、撮影の3つをこなして完成した自主映画。カンパケしたフィルムをはじめて映写機で上映する。我ながらクソつまんねストーリ、妥協だらけの産物、そんなことは分かっていたけど目頭が熱くなった。
写真のAX100というカメラは学生時代に四国失踪旅行に持って行ったカメラ。社会人になり、ふと目に留まり懐かしさついでに買っていた。旅の相棒としてエジプト旅行に持って行って、カタカタと鳴る気恥ずかしさのなかピラミッドを撮影して、探検隊気分を楽しんだりしていた。
今、フィルムのないカメラは甲高いカタカタという音と共に、むなしく空転している。