桜美について


なぜ桜にこうも惹かれるのか。
いろいろ理由を思い浮かべる。


ぱっと咲いてぱっと散るところが日本人心をくすぐる。
冬から春になったことを印象づけるから。
白でもなく、ピンクでもなく、つぼみのときは赤く、開花すると薄いピンクになり、
木々によってもタイミングによっても微妙な移ろいを楽しめるから。
開花が話題になるから。


いろいろ思い浮かべては見たが、単純に、
「美しいから。」というのが初動だろうと思う。


「美しい」というのも極めてパーソナルである。
人によっては逆になる可能性も大きく、年と思い出によってその感情は移ろいやすい。
しかし、古くから桜は詩や歌や絵、映像など様々に美しさを表現されており普遍的でもある。


国家の品格」の著者として有名な数学者の藤原正彦氏は、数学を志す上で重要なこととして美意識があることを取り上げている。
それは数学の中に美を感じ取れるかどうかが重要であり、それを感じ取るためには幼少期に育った場所に美しい風景があったかどうかが重要であると、そう述べられている。
氏がインドの天才、ラマヌジャンの生家を訪れたとき、かなりガッカリしていた。
生家の風景はそれほど美しい場所がなかったからだ。
しかし、少し離れた場所に美しい宮殿を見つけて、自分の考えが間違いではないことに安心していた。
美しいものを見ることは美しい物を生み出すことの必要条件であるのだ。


対称性というものに美を見出す。
これは美の入り口なのかもしれない。
西洋の宮殿、エジプトのピラミッド、インドのタージマハール、もちろん日本にも多くの対称性の建築物や美術品があり、対称性に美を見出している。
次に肉体美、レオナルドタビンチの人体の絵には、両手を広げた絵が描かれていて、パーツの長さ、配置などの比に対して美の根源があるのだということを探っている。


そして、日本には特有の美意識がある。(もちろん外国でも分かってはいたが積極的に作り出すところまで行かなかった、もしくは対象性を優先させたと思われる。)
盆栽に見られる植物の非対称性から現れる美。
非対称でありながら松の枝ぶりに美を見出している。これらはレオナルドの比に通じるものがある。


これら自然が見せる特筆は、数学の幾何でイディア的に表現されている。
(三角形、円、四角形、三角錐、正多面体、そして近年のフラクタル図形へと続く)


おそらく、黄金比、対称性。
それは人間が持つ対称性と、色々なパーツの配置比が健全な肉体であり、それに人々は遺伝子的に美しいと感じることから始まっているのだろう。


では桜はどうなのだろうか?
枝ぶりはフラクタル図形。
花は五弁であり対称性をもち、正五角形の形。
五弁の比には色々な黄金比が隠されている。


そして、人間は生存本能から変化に引き付けられる。(昔、肉食動物の恐怖から逃げるためには、動物の動きに敏感でないものは食べられてしまっただろうし、気温や、雪崩、そして現代でも世の中の変化に対応できなければ死に直結してしまう。)
開花の変化と、色の変化、散り際の変化。
変化に引き付けられ、根源的にある幾何的な美に引き付けられる。


こんなこと一気に考えてみる。
そんな長々と書きつられて来たけれども、その美に対抗できるのは当たり前にも「団子」なのでしょうね。^^