世界の終わり


写真教室の撮影会で日光植物園に行く。
照りつける夏の日差しの中、わずかに咲いている花々や昆虫を撮影していると、汗が滴り落ちてくる。それを手で拭いながらいろいろな被写体にカメラを向ける。
写真教室の人たちもそれぞれ自分が気にいった被写体にカメラを向けている。
そんななか、僕は日光を避けるように森の中に入る。すると意味もなく壁が遮っているのが見える。
そして、当たりには森特有の静けさと遠くの方を流れる川の音が聞こえる。
僕はなんべんも読んだある小説を思い出す。


世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド


僕はこの小説を読んで、
「作者と同じ時代に生まれてよかった。」と思った小説だ。(この小説を語らせると長いのでまた今度の機会に。)
その小説に登場する街のイメージが写真の壁に近くて思い出したのだろう。
川の音と森に囲まれた壁。
小説では壁が街全体を覆い、周りに山々や森、草原、川などの自然に囲まれている。
「ここが世界の終わりだな」とつぶやきながらシャッターを押す。


写真教室の撮影は午後から裏見の滝に行くことになり、トボトボと駐車場に向かって歩き出す。
すると、一人のおばあちゃんが、ゆっくりと歩を進めている。
しだいにみんなと距離が開いて行くのを気になり、写真を撮るふり(本当に撮っているのだけれども)をして、おばあちゃんの歩調に合わせる事にした。
おばあちゃんと少し世間話をしながら歩いているともう九十近くのようで、
「昔はいろんな所にいって写真を撮っていたんだけどね。」なんてつぶやく。
僕はそんなおばあちゃんに敬意をもち、
「僕もおばあちゃんみたいにずぅっと写真を撮っていきたいですよ。」という。
そうやって僕らは歩きながら世界の終わりを後にする。


僕らの撮る写真はいつ読まれるか分からない古い夢となるものなのかもしれない。
だけど、ある足跡であり、今この場である。
写真はアンカーのように固定された出発点。
見た人達は、そこから自分の経験とその出発点から色々な方向に進みだす。
そんな古い夢と呼ばれるものかもしれない。
そして言葉はそのアンカーから伸びた小さな獣道。歩き疲れた人を促したり、目標を示したり、目の見えない人には少しばかり先を見えるようにする。
そんな感じかもしれない。


僕もおばあちゃん達の獣道を歩き、そしてまだ切り開かれていない薮にも入ってみようと思う。