CHILDREN AND FOLKTALE


うさぎ!
最近ニュースに小沢健二がコンサートツアーをやる事が流れていた。
学生時代小沢健二が好きでよく聞いていた。
当時、その事を良く知っている重音部の友達に、
「そんな軽い曲、よく聞けるな。」と良くからかわれたものだ。
今振り返ってみると、オザケンの曲は、本人の青春時代の楽しさが込められていたし、その楽しい気分を歌っていたように思う。
(『life』が明るいアルバム、その前後に暗いアルバムというように本人の感情のままにである。)


音楽は音学でも、音道でもなく、『楽』となっている。
数学や物理学、経済学、医学など、『学』というものが付くものには人の決め事ではなく、自然法則にまつわる物の中に秘められた法則を明らかにしていく物事に『学』という冠がついている気がする。(経済学も人間が決めたルールが主体ではなく、ミクロ、マクロ的な動き、つまり統計力学的な事を中心としているし、医学も生物学の一部で、生物という自然法則の中から生まれた物の秘められた理についてである。)
また、柔道、書道、華道など『道』と付くものには、人間が定めたある事柄を極めていく人間の成長を主軸としている感じがする。
また美術は、美しさを生み出す術、人間の技能に主向きを置いているように見える。
そんな中で音楽は、音という意味では、空気の振動であり、物理的な振動、波動に原理を置いてはいるが、
音楽の『楽』足る所以は人間が耳で聞いて、楽しいのか、悲しいのか、どう感じるか、つまりは音を聞いて人間が感情としてどう楽しむのかという所に重点を置いていると思える。(日本人的にはですが)


そういう意味ではオザケンの曲はまさに音楽そのものだったのだな。と今にして思う。


さて、音沙汰のなかった小沢健二がこの10年何をしていたのかが凄く気になった。
そして調べてみると、『子どもと昔話』という雑誌で「うさぎ!」という昔話(風小説)を書いているという事が分かる。
ネット検索を駆使し、以前ネットに一話だけアップしていた様で、とあるアーカイブに一話だけある事が分かる。
そしてなにげなしに読み出す。
最終的に続きが読みたくて、近所の図書館やら浦和の図書館やらにいって仕入れるはめになってしまう。
ある程度、読み進めた所で、これはある意味現代の禁書である事が分かる。


昔、村上龍が好きな後輩に、
村上春樹なんていう何書いてあるかハッキリしないものを何で読んでるんですか?」と問いただされた事があった。
そのとき、唯一後輩の耳に受け入れられた事は、
村上龍の表現って時代が時代なら、禁書として闇に葬り去られかねない本なんだよ。村上春樹の表現方法は暗喩に満ちていて意図が多分に隠されていて、それでも読者の心に滑り込ませるような表現を用いているんだよ。だから、この先時代が変わっても村上龍は葬り去られるかもしれないけど、村上春樹は残るかもしれないよ。」という事だった。
(余談、村上春樹の最新作「1Q84」の意図は、ジョージ・オーウェルの「1984」を読め。という単純な示唆がメインなのではないかと思う。本の内容は花で言えば蜜のような感じ。)


そして、オザケンの「うさぎ!」これはまさに現代の禁書である。
こんな直接的な表現は広告のある雑誌にはまず乗らない。
そして、広告のない雑誌で、もしオザケンのネームバリューがなかったら多くの人に読まれる可能性がない。
そいういう意味では、凄く微妙なバランスの上で多くの人に読まれる可能性が残っている小説である。
子どもと昔話は、オザケンのうさぎ!が乗り出した号からオザケンのお父さん、小澤俊夫が編集長になっている。
(ご丁寧に、雑誌表紙に『小澤俊夫責任編集』とまで書いてある。))


オザケンの「うさぎ!」を途中まで読んで、ジブリの「もののけ姫」のある一場面を思い出す。
主人公アシタカがシシ神の首を返し終わった所で、
世の中にどっぷり薄汚れたジコ坊がなんとも清々しい表情でひとこと言う。
「バカにはかなわん。」と。


資本主義を当たり前だと思っている者にとって、アシタカように曇なき眼でみた世の中の真理は、突き刺さるものがあります。
そして、現代への批判の後に、どのような解決手段を彼が用意しているのかが気になります。
そのためにも、しばらく読んでいく事になりそうです。

LIFE

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