I stroll through the university.


近所を散歩すると、夏の日差しが歩く気力をそがす。
近所の大学の中は大きな木に囲われていて、その日陰に逃げ込むように歩を進める。
大学に通っていたのがもう10年以上前。だいぶ遠くへ来たものだ。


その当時、趣味で研究室の片隅でトリオップス(カブトエビ)を飼育していて、その成長日記をブログに書いていた。
ブログには単なるトリオップスの成長日記では面白くないので、マッドサイエンティストが霊子と呼ばれる生命の基本粒子をトリオップスという生物から抽出できるという論文をよみ、その追試実験をしているというスタイルで書いていた。

その背景には僕なりの考えがその当時あった。


私は多くの日本人と同じように宗教的な神様や幽霊を信じていない。
死んでしまった知人や肉親が天国で暮らしていればいいなと思う程度で、そういう意味ではもしかしたら、いたら良いな〜と思う程度である。
また多くの日本人と同じようによろずの神やギリシャ神話のように色々な物や自然に神様が宿る、そんな物があるのだとしたらそれはそれで楽しい世の中だろうと思っている。ただ、基本的には信じているのは理系ということで科学という名の宗教ぐらいだろう。


そんな幽霊を科学的に存在するためにはどう理屈を持てばよいか少し考えたことがある。
まず科学的ということは、測定できない物は存在しないという考え方から始まる。
何かしらの機材を通して針が触れるのを目撃するればそれは存在することとして科学的に証明されたということになる。
分り易く言えば、目に見える現象であれば存在するのである。(もしくは目に見える形に変換できれば。)


霊というものが存在するとしたらどういうのが自然なのだろうか?
霊は目撃例が少なく、たまに見る人がいるそんな現象である。
そしてその殆どが思い込みや、脳が作り出した幻想や錯視である。
それを取り除いたとしたら、それはそれは少ないことだと思う。
そんな殆どない現象が科学的にないかといえばそうでもない。
大学を卒業してからであるが、近年ノーベル賞を受賞した実験で証明されたものがある。
いわゆるニュートリノである。

山中奥深く岩盤に囲まれた地下の巨大な空洞に水を満たして、それを巨大な光電管で測定するカミオカンデ。もしニュートリノと呼ばれる物が水と反応すれば弱い光を出して、その微弱な光を電気に変えて測定する、ニュートリノ以外の光やX線などの強い光は岩盤がせき止めてくれているという方法である。


ニュートリノは地球を20個程度直列に並べても、反応せず通り抜けてしまうくらい反応性の弱さである。しかし、それが超新星爆発の際に大量のニュートリノが発生して、何万光年離れたカミオカンデを通過した時に水と反応して測定出来たというものである。これが小柴さんがノーベル賞を受賞した経緯である。

さて、つまり神様や霊がこの世の中に影響性の薄い物質や力で構成されていればあながち神様や霊が存在しないとは言い切れないのかもしれない。
ここで例えばニュートリノのような存在で、霊子という物を仮にあるとする。それは実世界の物質とは反応性の低い物質である。
これがまとまった物が魂と呼ばれる物と考えるとどうだろうか。
これがたんぱく質のような物の中にある種の条件が整うと滞在し、実世界、実物質に影響を与えると考えると面白い。
つまり、霊子が実物質にニュートリノのような存在が影で影響を与えている状態が生物ということである。


生物がこの霊子で作られた魂とは条件がうまく適合し、生物がその条件をなくしてしまうと、その生物に魂がとどまることが出来なくなる。
もしかしたら、多くの人間が愛したり、畏敬の念を及ぼしている場所や物質には、霊子がたまりやすい性質があると考えると、土着の神が宿る理論にも繋がるかもしれない。
もしかしたら、地球そのものに、宇宙そのものに我々とは反応性の低い別世界がお互いに神様の存在のように弱い影響を及ぼしあっているのかもしれない。


そんなことを大学時代に考えて、それをバックグランドとして、トリオップスのブログを書いていた。
真剣に信じている話ではなくSFとしてのジョークブログである。
ただ、そうすると死後に何にもない虚無の世界と考えるよりも、豊かな世界が広がっていると考えられて面白いですね。


そんなことを歩いていて思い出す、夏のある日です。