I think that I like columns.


昼休みにデジタルカメラマガジンを読んでいると、巻末にいつもある編集長のコラムに目が止まる。
震災直後にはこのコラムの中で、自分がやっている写真雑誌や写真が震災に対して何も役に立っていないという無力感を伝えていたり、少し時が立ってくると、写真が与える勇気や役割の大きさなどを書き連ねていた。
今月号では、震災から離れて写真と写真の題名が鑑賞者に及ぼす関係性など、独自の考えと時流を織りまぜた個人の気持ちや考えをコラムの形で伝えている。
一個人が独断と偏見によりコラムを書いている。だからこそ面白いと思うし、読んでいると、書いている人がどのような人なのかものすごい興味が出てくる。
そんなことを考えていると「僕はコラムが好きなんだなっ」と思う。


日本における「コラム」という言葉を正確に理解したのは高校生ぐらいだろうか?
木村太郎が夜のニュース番組内で「木村太郎のコラム」のコーナをやっていた。
その番組の最終回の「コラムのコナー」で木村太郎が「コラム」について語っていた。
「ニュースでは正確に、偏見のない事実を伝えなければなりません。そのためには、ニュースキャスタが一個人の意見をニュースと共に伝えることはニュースの持っている透明性、公平性を失ってしまうかもしれません。しかしそれではニュースの持つ背景や意味を伝え切れません。番組のいちコーナとしてコラムとして分ける事で、私一個人の意見を言える場を作りたかった。」というような趣旨の事を言っていた。
宇多田ヒカル風に言えば「新聞なんかいらない、肝心なことがのってない」の肝心な事がニュースの中のコラムなのかもしれない。


さて、コラムというのは、世の中の事実を正確に伝えることでは無く、時代やニュースや出来事に対して、独断と偏見により自分の意見を言う。ということだと思う。
そして、良いコラムというのは、一個人の独断と偏見にもかかわらず、一般性があり、他人がそのコラムを読んで共感できるということが良いコラムの必要条件であると思う。


僕は、そのあと様々な処で良質なコラムと出会う。
その中でも記憶に残る良質なコラムは藤原正彦だろうか?


宇都宮から東京までの新幹線の中、前座席に挟まっているJRのフリーペーパーを何気なく見る。巻頭近くに列車にまつわるエッセイが掲載されていた。
たしか、藤原正彦が自分の子供と列車で田舎に帰る最中の出来事と、数十年前、自分が子供だった頃、父親と帰る最中をリンクさせ、父親が言っていた台詞を我が子にも言うワンシーンが描かれていた。その文章がとても綺麗な表現を使っていて、しかもちゃんと現代の交通機関発達により旅情が失われつつある時代背景と自分の気持もわずか数十行の文章の中に織り込まれていた。
さすが数学者らしく、文章も無駄のない完璧な表現であると感心させられた。
それを契機に、藤原正彦に興味を持った。
氏の本を読みあさり、それが過ぎると、今度は彼の研究していた整数論に興味を持ち、冷めていた数学への興味も復活したことを覚えている。
そしてこれらの文章は、小説やエッセイといった分野のものであるが、極めて独断と偏見に溢れ、「コラム」としての性質を備えていると言える。
そして数年後には「国家の品格」というベストセラーを生み出し、一般人が好む独断と偏見が備わったコラムであるとある意味証明されたのだろうか。


その他にも、「太田光のコラム」や天声人語のようなコラムやブログに潜むコラムの中に様々な意見と一般性に出会ってきて今日の僕があるのだなと思う。

さて少しコラムというものを独断と偏見で定義づけしてみる。
先に述べた2つ。
・世の中の出来事に対して一個人の独断と偏見で意見が書かれている。
・良いコラムとは一般性があり他人との強い共感を生むもの。
これに1つ加えたい、理由は3つの方が締まりがいいからである。

最後の3つめは
・個人の意見という事が明記されている。
という特質が有るのではないかと思う。
それは、新聞や雑誌で言えば囲み記事であるということであり、テレビニュースではコーナとして独立しているということであり。本で言えば、書かれた作者名が記されているということであろうか。
そうすることにより、ある程度の隔たりというか、ある程度の独立というものが生まれ、これが最後に重要なのだろうと思う。
宇多田ヒカル風に言えば「Final distance」とでも言うべきか。


さて、コラムについてのコラムはこのへんで。