戸隠蕎麦ツアー① 〜車で走るときに僕の考えること〜


今日はパラグライダーのリベンジ予定だったが、天気予報がビートルズのアルバムを買ったら既に持っていた..ぐらい最悪だったため、目的地を長野の戸隠に変更してみんなで新蕎麦を食べに行くことになった。
僕は宇都宮から長野まで一人で車の運転。それにそなえ大量のCDを車に積み込んで出かける。
エンジンのキーを回し、カーナビで最短距離を選択する。
最初のうちは、運転と流れている曲に集中しているが、次第にバックミュージックに変わってくる。
大塚愛から始まってミスチルサンボマスター、そしてくるりを聞く頃には、宇都宮市から佐野市、そして足利市を通りかかり、頭は別のことを考えだしていた。
通り過ぎる山並みがすっかり切り出され、禿げ山になっている場所を通過し、石灰工場が見えだす。赤茶け、幾分寂れた雰囲気が出ている町を通り過ぎる。
「どうしてこういう町になってしまったんだろう?」と僕は考えだす。
おそらく炭坑の衰退などと同じなのだろう、(高度経済成長で繁栄、海外資源に押され衰退)しかしそれでは本当の理由にはなっていない。石灰で稼いだ資金で別のことやり、うまくバトンが渡されていれば今の町とは違う別の町もあったはずだ。日本全体で、シャッタの降りた商店街が多いことを考えると地方都市全体が難しいのかもしれないが、僕は、それでも文化がなかったんだろうと思う。
町に根付いた文化、食文化、祭り、習わし、そんな無駄とも思えるものが失われてしまったのだ、と考える...
「しかし、どうして失われてしまったのか? それも日本全体が?」そう思って僕は、また考えだす。


僕は海外旅行に行くといつも日本との違いを探していた。
その違いの一つに「なんで国民性なんてものができるのだろう?」という疑問が湧いていた。
数回の海外旅行をするうちに、僕には体感的な答えを発見した。
「その国々の気候と地形が国民性を作り出す。」である。
考えてみれはあたりまえだが、あったかく、果物がなっているところでは、国民性はおおむね穏やかになり、
寒くて、食べ物を工面しなければならないところは鋭く、熟慮深くなる。
そんな国民性が国それぞれの文化を作っていく。


「じゃあ、さっきの日本の例は?」と自問する。
日本は戦後技術力を梃に経済大国なんてものになった。
物が豊かになって、冷房も暖房も、車も、電車も発達した。
これは生活において気候や、地形から影響を受けないほど快適になるものだと思う。
ということは日本の国民性が変わったということかな。
と結論づけるが壮大過ぎてとりとめがない。


渡良瀬川まで来るとまた別のことを考えだす。
「たしか、ここは”虹の女神”という映画のロケ地だな、主人公たちが缶を蹴りながら歩いていたな〜。」
なんてことが頭を過り、映画のワンシーンを回想する。
主人公たちのトボトボ歩くなんとも切ない情景、映画も重要な文化の端くれかなと考える。


高速に入り、町の風景から次第に嘘のようにカラーリングされた山の風景にかわる。
赤、黄色、緑、山がペンキ屋の服のような派手さを持つ。
その山の麓にポッカリ開いた穴に道は突っ込んでいく。
ペンキ服に突撃するような感覚。
まだまだ日本の四季も捨てたもんじゃない、なんて考えも浮かぶ。


いろんなことを考えては忘れて、今ある秋を見ながら僕は2時間近く遅刻して戸隠に到着する。