フェルメールの考察と六本木の夜景について


東京は六本木、M氏と新東京美術館の「フェルメール《牛乳を注ぐ女》とオランダ風俗画展」を見に行く。
期待していたフェルメールは一点しかなかったが、代表作「牛乳を注ぐ女」があった。
他のオランダ風俗画と比べて明らかに突出した作品。
他の物は風俗画ということもあるが、ゴチャゴチャといっぱい人物や物を書いていたり、少しユーモラスな絵であったり、教訓的であったり、どれもB級を目指した作品ばかり。(もちろん「アムステルダムの孤児院の少女」など、そうじゃないのもある。)
さすがに名作と呼ばれる物は違う。(B級にはB級のたのしみもあります。^^)


この絵からは名画を目指す心意気が右側の余白から感じられる。
X線でこの絵画を写真に撮ると、白壁部分に何か書かれていた跡があったそうだが、白く塗りつぶしたようだ。
これが絶妙な空間を作っていると思う。
写真撮影でも、映画制作でも、もちろん絵でも、作品を作っていると、余白があったら埋めたくなるのが人情だ。
作り手として大胆な余白を書くことは怖いのだ。
作品を作っていると余白が他の人に感動を与えるかも分からなくなるし。
その前段階の導入がうまく行っているのかも自分では分からなくなる。(フェルメールで言えば精細な描写と光と陰)
大抵のクリエイターがその導入で失敗して、チャレンジで総スカンを食らったことを考える(体感している)。
だからどうしてもB級で無難にまとめたくなる。
だけど、あえて自分を信じてフェルメールのように空間を作って人と白壁が出すエッジを際立たせる。
映画で言えば、クライマックスに沈黙を空ける。
失敗すればテンポの悪い映画になるし、成功すればそこに感動が生まれる。
そんな危険性を含んだチャレンジだ。
そんな考察をM氏に語る。


六本木ヒルズの青になった横断歩道の真ん中で、なるべく手ぶれを押さえて、ポラロイドを撮影する。
B級、名作なんて考えずに撮影した夜景写真。
写真が手軽になった今の時代は風俗写真の黄金期かもしれないな、と浮かび上がる絵を前にして少し思う。
浮かび上がって来た写真は手ぶれでピンが甘い。
だけどこれからも自分を信じてシャッターを押そう...名作写真がとれるその日まで。