ムンクの考察と真実の扉について


ムンクには親密感がある。
昔、大学一年の自己紹介冊子に4コママンガを書いた。
内容は忘れてしまったが、主人公(自分だったかな?)が何かに失敗してムンクの叫びのポーズをして「ムンクル〜」と言う、そんな何でもないマンガだったと思う。
そんな自己紹介マンガを読んだある奴が、「じゃあお前の事、ムンクルって呼ぶよ。」といい、大学一年早々あだ名がついてしまったのだ。そんな訳であだ名の持つ親密感に引かれて、帰る途中に上野のムンク展を見に行く。

展示会にはムンクの叫びこそないが、108点のムンク作品が一同に介していた。
「叫び」と同じ構図の「不安」「絶望」や有名な「マドンナ」もある。
前日にフェルメールを見た所為もあるが、絵の数と大きさにいくらかびっくりしていた。
ムンクの作品はフェルメールのような緻密さとはほど遠い作品群だが、それでも絵の構図や人物の縮尺など考え抜かれた間違いのないものである。
しかし見ていて少し疑問がわく、
「これだけの腕があって彼はなぜこんな荒いタッチを選んだんだろう?」
もちろん作風と言ってしまえばそれまでだが、人物にしても的確に陰影を捉えていながら、細かい筆運びではなく、頭に描いている完成系を印象派か習字のような荒い筆で一気に書き上げたような感じだ。
絵を下から見ると絵の具がもりもりと溜まっているところもあるし、筆の跡もありありと見える。
しかしその答えはすぐに分かる。
たまに掛けられている説明文を読むと「生命のフリーズ」とムンクが言う絵の連作に傾倒していたようだ。もちろん絵を描く事は生業だが、単独の絵の表現よりも、一枚の絵を符号として使って連作として表現することが目的だったようだ。
だから一枚一枚の絵は早く書く必要がある。彼が表現したいのは絵一枚では語り尽くせない、連作での表現が目的なのだ。そのための荒いタッチ。僕はそんな印象を持つ。(美術に詳しい人に怒られそうですが...)
そんな連作の「生命のフリーズ」を表現するために、展示室にはレプリカの「叫び」「不安」「絶望」などが壁に掛けられていた。
そしてそれらの作品の下は大きな空洞がありその左右にさらに作品が並べられている。
その開けられた空間を不思議に思って離れたところにある説明文を見に行く、するとこの写真(エーケリーのアトリエ)が掛けられてあった。そう開けられた空間には本来扉があるのだ。
扉がある風景を想像してみる。
見事にはまる。ムンクの意図している事がなんとなく分かる。
扉の左右に絵(何の絵だったか忘れてしまった)上に「叫び」「不安」「絶望」
なんだか、暗い人生のようだ。
だったら扉で遮られた見えない先があった方がいい。パンドラの箱にも未来という希望があるのだから。
もしかしたらそんな事を連作でムンクは表現したかったのではないだろうか。

ムンクの作品を見て十分すぎるほど満喫したあと、美術館の横に写真の扉を見つける。
ロダンの「地獄の門」らしいが、僕には鋼の錬金術師の真実の扉に似ている。
どちらも意味的には同じようなもの。
僕はポラロイドを構えて、「この周りにムンクの作品群を配置したら...」と想像しながらシャッターを押した。