あいかわらずの田んぼと夕日


僕が小学校2年生まで育った習志野市の内陸は、田んぼの姿はなく、殆どが畑であった。
そんな中に、たまにある田んぼはカエルやザリガニのような生物がいて、僕にとってはオアシスのような所だったのかもしれない。
そして小学校3年になる時には、現在の実家の千葉市の埋め立て地に移り住むようになった。
埋め立て地には、まだ広大な空き地が余っていてそこにもカエルやヤゴのような生物がいた。
しかし、ザリガニやドジョウのような移り住むのに時間が懸かる生物は皆無だった。
埋め立て地の水たまりは、ショベルカーのキャタビラの跡や整地できなかった窪地などに水がたまったものばかりで、どことなく情緒がなく、奇麗さがなかった。おそらく淀んで死んだ水も多くあった所為だろうと思う。
春、田んぼは生き生きとした水で満たされる。その広大な水面に写る夕日や、空が、日常でありながら非日常的な美しさを感じるのかもしれない。
だからこそこの歳になって、田んぼにオアシス的な渇望と美しさを抱くのかもしれない。


僕が歳をとっても、いつまでたっても「あいかわらず」であって欲しいものだ。